インドネシアの華人(メモ)

華人食堂が並ぶ通り Medan_North Sumatra, 2015

「インドネシア料理の中の中国」を見て行く上で、
インドネシア国内の華人について少し知っておいた方がいいように思い、いくつかの本を読みました。
インドネシアもそうですが、中国とひとくちに言っても広大で、その食文化とてひとくくりには出来ないはずで、
そうなると、インドネシア国内の華人たちのルーツをいくらかでも認識しておいたほうが、
先々見て行くのに、わかりやすいかなあと思ったのです。
もちろん、人は移ろい影響しあうものですので、がっちり線引きできる訳ではないという前提で。

今回は、本やその他資料などから拾い読んだ事柄をざっとまとめたメモとしての記事です。
(なので、文字と地図ばかりの記事になります、笑)
インドネシアの地図上に、中国からの移民たちの広がりのイメージをざっと重ねる感じで。
また、あくまで調べ始めのメモ記事ということで、後から訂正追記もあると思います。
もし何か気づいた点があれば、ご指摘くださいね。

2016年時点でインドネシアの総人口は2億6千万人を超え、うち華人が占める割合は2〜3%と言われます。
5~700万人規模の華人がインドネシアに暮らしているわけですが、
これは、タイ、マレーシアを凌ぐ、世界最大規模になるのだそうです。
インドネシアの華人たちは、特に20世紀の後半に政治的な力で抑圧されていた時代があり、
中国語の学習や表記の禁止や、同化政策、幾度かの暴動の標的にされるなど、苦しい時代を経ています。
1998年の政変後に進んだ民主化の流れの中、華人たちへの制限が取り払われてゆき、
2003年には旧正月(イムレック/Imlek)がインドネシアの国民の祝日と認定されて、
名実共に、共和国を構成する一民族として受け入れられたと言えるのではないかと思います。

インドネシア華人の中で一番多いのは福建人。続いて、客家人、広東人、潮州人、わずかに海南人。

A:ジャカルタ
B:福建省
C:広東省
D:海南島
E:バンコク
F:マラッカ
G:シンガポール

中国からの移民全体を見ても、
東南アジアなど南方への移民の多くは、華南地方と呼ばれる中国南部の沿岸都市の出身が多く、
中でも福建省は、政府公認の貿易港である広州を持つ広東省と異なり、外国船の寄港も少なかったことから、
海外貿易を求める人々は、自らが出て行かざるを得なかったという背景があるようです。
なので、福建人はかなり初期から東南アジア諸国へ移住、
交易地として好条件であるマニラ、シンガポール、マレー、タイ南部などに基盤を築き、
15世紀には、マレーシア西部のマラッカなどにおいて一大勢力となっていたのだそうです。

この流れは、インドネシアも例外ではなく、南スマトラのパレンバンや東ジャワのトゥバンなどでは、
その当時、既に多くの福建系華人たちが居住していたようです。

1.パレンバン
2.トゥバン

ちなみに、記録に残っている中国からインドネシア地域への移住の最も古いものは900年代で、
その頃には、このパレンバンには既に華人たちが定住し、農業に従事していたという資料があるそうです。

初期の移民たちは、これらの土地以外にも、交易の地の利のいい土地(ジャワ島北岸など)に定住、
現地への融合も進み、例えばジャワで商業に従事していた華人たちは、
日常でも家庭内でも現地の言葉(ジャワ語やスンダ語)を用いることが多く、
結果、出身地である福建語等の言葉を話せる者は少なくなっていったのだと言います。

華南地方からの移民は19世紀後半、オランダ植民地下の労働力として再び増加。
この時代の華人、特にスマトラに定住した華人たちは出身地の言語や文化を比較的維持したと言います。
北スマトラ最大の都市、メダンは現在も華人文化の影響を随所に見ることができる街で、
この街出身の華人曰く、メダンで福建語が話せないと商売にならない、のだそうです。
メダンの華人の全てが福建系というわけではないはずなので、ここで言う「福建語」とは、
共通語という扱いで、地元華人の中で最も比率の高かった彼らの言語が採用されたのでしょう

これに限らず、福建系華人はインドネシア全土に広く居住しており、
スマトラ島、ジャワ島の他、南カリマンタンのバンジャルマシン、南スラウェシのマカッサル、
そしてマルク諸島のアンボンまで、その範囲は広がります。

A:スマトラ島
B:ジャワ島
C:カリマンタン(ボルネオ)島
D:スラウェシ島
3:メダン
4:バンジャルマシン
5:マカッサル
6:アンボン

インドネシア各地の中国由来の食べ物の名前が、福建語の音に基づいているのも、
この広範囲に渡る定住ゆえなのでしょう。

また、福建同様、海外への移住者を多く出したのが広東省。
インドネシアで広東系華人が多いのは、ジャワのジャカルタ、バンドン、スラバヤだそうです。

7:ジャカルタ
8:バンドン
9:スラバヤ

とはいえジャカルタなどは、インドネシア国内でも最大の華人人口を抱える首都ですし、
色んな土地からの出身者たちが集まっているでしょうから、
この広東系華人については、わたしの中ではまだ漠然としています。

そして、シンガポールに近いスマトラ島のペカンバルとバタム島には、海南島出身華人の定住が見られるそう。
海南人たちは、かつて、主に英国領において料理人として働いていた場合が多く、
なので、元英領であるシンガポールから海峡を渡ってすぐのバタムやペカンバルというのは、納得。
ただ、北スラウェシのマナドも海南華人が多いというのを見かけ、
そこだけはなんだか脈絡のない点のようにも思えます。いずれ現地で確かめてみたいですね。

10:ペカンバル
11:バタム島
12:マナド

緩やかに流入して来た初期の商業従事者としての華人に対し、
19世紀半からの植民地支配下での労働者としての移民は、各地に急激な華人人口の増加をもたらしたわけですが、
その流れとは別で、オランダ入植以前からインドネシアに労働力として移り住んで来た華人たちがいます。
それが、客家。インドネシアの華人人口の中で2番目の比率を占めるひとたちですね。

福建省や広東省あたりの、やや内陸側の山間部に暮らす民族が客家人。
彼らは、鉱山開発の労働力として、インドネシアに早くから移住して来ていました。

まず、西カリマンタンのシンカワン。
ここの金鉱開発に関わっていたのが、18世紀半ばに移住して来た客家人たち。
「労働力として」と書きましたが、シンカワンの客家人たちは、独立した自助集団を形成し、
それゆえ、現地政府に支配されることもなく、出身地の言葉や習慣を色濃く残したのだと言います。
そのためか、1980年代に入ってシンカワン周辺からジャカルタへの移動が活発であった時期、
インドネシア語をほとんど話さないシンカワン華人集団は、本国からの密入国者と疑われたこともあったとか。
融合政策下でインドネシア化が進んでいたジャカルタの華人たちの中では、かなり異色な集団だったのでしょう。
現在は、このシンカワン系華人、ジャカルタの華人たちの中でも人口規模の多い集団となっているようです。
この他、19世紀半ばから開発が進んだバンカ・ブリトゥンの錫鉱にも客家人が関わっており、
これらの土地にも、客家系華人が多く暮らしているのだそう。

13:シンカワン
14:バンカ・ブリトゥン

突出しているのはこれらの土地ですが、客家系華人たちも福建系華人同様、インドネシア各地に定住しています。

そして、最後に潮州系の華人たち。
広東省の北部沿岸出身の潮州人たちですが、潮州系華人というとバンコクというイメージがあります。
インドネシアで潮州系の華人が多く定住しているのは、
西カリマンタンのポンティアナク、リアウ諸島、スマトラ南東部のジャンビ、など。

彼らは商業に従事しつつ、
ポンティアナクからリアウ諸島、そしてシンガポールまで広い行動領域を持って自ら交易を行ったそうです。
潮州系華人が多い都市に、ジャワ北岸のスマランが上がっているのも目にしたのですが、
なんか「んん?」という感じです。脈絡ない気がして。

15:ポンティアナク
16:リアウ諸島
17:ジャンビ
18:スマラン

すこし引いて、東南アジア東部の華人たちの出身をみてみると、
タイは潮州人、マレーシア半島部、シンガポール、インドネシア、フィリピンは福建人、
インドシナ及び、マレーシア領ボルネオでは広東人、が上位にくるようです。

と、まあ、華人研究が第一目的ではないので、今の時点ではざっとこんな感じで。
このページは引き続き、訂正追記していきたいと思います。
当然ですが、この範囲を超えてインドネシア全土に華人たちは根を張って暮らしています。
ただ、このくらいのイメージを頭の中においておいたら、
各地の料理の中にある中国からの影響というのを掬いやすくなるかなという感じで。

客家麺の表示 Medan_North Sumatra, 2015

ということで、来週は、
潮州系華人の多く暮らすとというポンティアナクと、その北のシンカワンに行ってみる予定です。
戻って来たら、また。

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